2010.09.09
第39回 長誉館・志葉会のお知らせ
第39回 長誉館・志葉会のお知らせ
平成22年9月23日(木・祝)、39回目の志葉会を開催いたします。
講師には、醸庵・カラサワルームでお馴染み?の
柄澤 照文(からさわ てるふみ)さんをお迎えします。
今回の志葉会のテーマは、
良い子がまねしてはいけない「いい いのち」
お話のテーマは、
「仕事じゃないけど、大仕事」
…けっしてふざけているわけではありません(笑)。

(↑クリックすると大きくなります)
参加申し込みは9月14日(火)までにお願いします。
素敵な時間をご一緒できますように☆
平成22年9月23日(木・祝)、39回目の志葉会を開催いたします。
講師には、醸庵・カラサワルームでお馴染み?の
柄澤 照文(からさわ てるふみ)さんをお迎えします。
今回の志葉会のテーマは、
良い子がまねしてはいけない「いい いのち」
お話のテーマは、
「仕事じゃないけど、大仕事」
…けっしてふざけているわけではありません(笑)。

(↑クリックすると大きくなります)
参加申し込みは9月14日(火)までにお願いします。
素敵な時間をご一緒できますように☆
2010.07.28
第38回 長誉館・志葉会 ありがとうございました!
第38回 長誉館・志葉会が無事終了いたしました。
今回もいい会となりました。ありがとうございました。
賢之くんが今回もブログにまとめて下さいました。
賢之くん、ありがとう!感謝☆
賢之くんブログ その1
賢之くんブログ その2
賢之くんブログ その3
また、夢多き風来坊詩人こと大久保守晃さんもまとめてくださいましたので、
ここに紹介させていただきます。
モリアキさん、ありがとうございます☆感謝☆
第38回志葉会「心奥に宿るいのち」眞木宏哉
「山へ帰る」
私は今、林業の担い手になっている。林(はやし)の業(わざ)である林業のことを
知っている人は少ない。長い公務員生活の成れの果てで、林業をやっている。別に山
持ちで山を持っているというより、山を持っている公的責任を担いながら林業経営を
したいと思っている。
公務員を長年やって辞めるとき、もう本当に嫌だと思った。一生懸命真面目にやり続
けてきたが、もうやりたくないと思った。ずっと酷い肩凝りだったのが、すっと治っ
てしまった。
年を取ってきて体力がそれほどあるわけでないので、肉体で貢献できないが、経営と
して林業に貢献したいと思っている。
三重県の林業を視察に行って感銘を受けた。単に木を植えているのではなく、しっか
り目的を持って山を管理している。伊勢神宮の奥には、神宮の持つ神宮林の山があ
る。遷宮祭の時に使う材をを育てている。今植えているのは200年後の遷宮祭のため
の木だ。以前は古くからある木を切るばかりだったので、鎌倉時代には禿山になって
しまい、木を三河地方に求めることになった。そして木曾にも求めたが、だんだん足
りなくなってきた。そこで昭和の始めに伊勢神宮の裏の神宮林で木を目的を持って育
てることになった。
菅総理大臣の「森林再生プラン」のブレインである林業経営者は、伊勢神宮の200年
ほどではないが、やはり長期的なスパンでモノゴトを考えている。3代続かないとモ
ノにならないのが林業。自分が切り出して木材にできるのは、爺さんが植えてくれた
木だ。お百姓なら毎年収穫できるので、喜びを実感できるが、林業にはその喜びが無
い。合計で183歳のともに90代の両親を介護しながら、林業を学んでいる。90代の父
は、「林業やらないなら山はお前にはやらん。お国に返す」と言い続けてきた。
山はオレのものだけどオレのものではない。地域のものだ。すぐに年貢の上がる田畑
は賞有権が明確だったが、もともと山の所有権は曖昧で、地域みんなのものだった。
田んぼの水を取り合う争いがあるように、山でもいろいろな争いがあった。個人所有
だから好きに伐採していいとは言えない慣習があった。
木材の価格は下がり続けているので、山を持って維持することは大変な時代になって
しまったので、山の所有権やいろいろな争いは無くなった。林業をやるなら今はチャ
ンス。どんどん山を買うことができる。
『奪われる日本の山』外資が知らない間に日本の山を買いあさっている。やたらに広
くて緑もないような中国から見れば、日本は緑に覆われた楽園のようなもの。温泉も
有り、魚も美味しい。日本の旅行に来るどころか、別荘を持ちたいという中国人が増
えている。またウォーター・ビジネスとして、美味しい水が潤沢な日本の山が注目さ
れている。地下水も所有権に関わる。地面を掘って出てくる水は、土地を持っている
人のもの。底に緑の山を持っていること自体が、地球温暖化防止に役立つ価値を持
つ。
われわれ日本人が山は面倒だとほかっている間に、外国人に取られようとしている。
山は境界も分からなくなってしまっている。公図も実際には余りに役に立たない。境
界線を明確にするためにも間伐や山の管理が必要になる。農業生産法人のように、地
域の林業者が一緒になって山を管理していく体制作りが必要ではないか。
割り箸は使い捨てで良くないと言われるが、そうばかりとは言えない。日本の木の割
り箸ならどんどん使い捨てし貰った方が間伐が進み山にとってプラスになる。山は木
を切ることも必要。
間伐材は安く、切り出して運ぶ人件費と運賃で、ほとんど残らない。でも間伐するこ
とで100年後に良い木ができると考えれば、やる必要もあるのではないか。間伐コス
トを吸収できれば良しとすべきだが、考えてみると、長期間木を育ててきて、その間
のコストは全く回収できない。
間伐とは間引き、抜き切り。たくさん植えて、間引きしながら良い木を残し育ててい
くこと。以前は細い間伐材もいろいろな形で使われていたのが、コストの安い他の方
法に取って代わられて使い道が無くなっている。間伐材が使えないので、切ってその
まま寝かせておいて腐食させる。ただそうするとその後の作業がし難くなる。
・・・・以下、ディスカッショ ン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
国有林と民有林の問題。江戸時代から明治になる時に、国が良い場所を強引に国に召
し上げたという経緯がある。もうひとつは交通アクセスが悪いところを国有林とした
という部分もある。そういう山は非常に収益を出しにくい。現実に林野特別会計は大
赤字。国有林は膨大なコストがかかっている。税金の支払いに物納しようとしても、
国は受け取ってくれないのが現状。
学校とは、木に交わって学ぶところ。政策として、学校の校舎はすべて木造にすると
いった思い切った政策をしないと、子供たちが森の大切さ、山の大切さを学ぶことが
できないのではないか。
エコカー補助をやるのなら、エコ住宅で二重窓とか作ることより国内材で家を作れば
補助金を出すというような施策が必要ではないか。
最近は獣害が深刻。植林した木の新芽を食べて駄目にしてしまう。自分の子供の頃、
50年前はこんなに猿や鹿は里へ降りてきて悪さをしなかった。可愛そうなことはした
くないが、本当に戦いが必要なぐらい被害が出始めている。なぜこんなに増えたの
か。奥の山を乱開発したという人もいるが、昔とそんなに変わっていない。温暖化で
本来なら冬を越せなかった動物が越せるようになってしまったとか、狼やきつねなど
の肉食系の動物が居なくなってしまって増えたのではないかとも言われるが、原因は
良く分からない。
みなさん、本当にありがとうございました。



















今回もいい会となりました。ありがとうございました。
賢之くんが今回もブログにまとめて下さいました。
賢之くん、ありがとう!感謝☆
賢之くんブログ その1
賢之くんブログ その2
賢之くんブログ その3
また、夢多き風来坊詩人こと大久保守晃さんもまとめてくださいましたので、
ここに紹介させていただきます。
モリアキさん、ありがとうございます☆感謝☆
第38回志葉会「心奥に宿るいのち」眞木宏哉
「山へ帰る」
私は今、林業の担い手になっている。林(はやし)の業(わざ)である林業のことを
知っている人は少ない。長い公務員生活の成れの果てで、林業をやっている。別に山
持ちで山を持っているというより、山を持っている公的責任を担いながら林業経営を
したいと思っている。
公務員を長年やって辞めるとき、もう本当に嫌だと思った。一生懸命真面目にやり続
けてきたが、もうやりたくないと思った。ずっと酷い肩凝りだったのが、すっと治っ
てしまった。
年を取ってきて体力がそれほどあるわけでないので、肉体で貢献できないが、経営と
して林業に貢献したいと思っている。
三重県の林業を視察に行って感銘を受けた。単に木を植えているのではなく、しっか
り目的を持って山を管理している。伊勢神宮の奥には、神宮の持つ神宮林の山があ
る。遷宮祭の時に使う材をを育てている。今植えているのは200年後の遷宮祭のため
の木だ。以前は古くからある木を切るばかりだったので、鎌倉時代には禿山になって
しまい、木を三河地方に求めることになった。そして木曾にも求めたが、だんだん足
りなくなってきた。そこで昭和の始めに伊勢神宮の裏の神宮林で木を目的を持って育
てることになった。
菅総理大臣の「森林再生プラン」のブレインである林業経営者は、伊勢神宮の200年
ほどではないが、やはり長期的なスパンでモノゴトを考えている。3代続かないとモ
ノにならないのが林業。自分が切り出して木材にできるのは、爺さんが植えてくれた
木だ。お百姓なら毎年収穫できるので、喜びを実感できるが、林業にはその喜びが無
い。合計で183歳のともに90代の両親を介護しながら、林業を学んでいる。90代の父
は、「林業やらないなら山はお前にはやらん。お国に返す」と言い続けてきた。
山はオレのものだけどオレのものではない。地域のものだ。すぐに年貢の上がる田畑
は賞有権が明確だったが、もともと山の所有権は曖昧で、地域みんなのものだった。
田んぼの水を取り合う争いがあるように、山でもいろいろな争いがあった。個人所有
だから好きに伐採していいとは言えない慣習があった。
木材の価格は下がり続けているので、山を持って維持することは大変な時代になって
しまったので、山の所有権やいろいろな争いは無くなった。林業をやるなら今はチャ
ンス。どんどん山を買うことができる。
『奪われる日本の山』外資が知らない間に日本の山を買いあさっている。やたらに広
くて緑もないような中国から見れば、日本は緑に覆われた楽園のようなもの。温泉も
有り、魚も美味しい。日本の旅行に来るどころか、別荘を持ちたいという中国人が増
えている。またウォーター・ビジネスとして、美味しい水が潤沢な日本の山が注目さ
れている。地下水も所有権に関わる。地面を掘って出てくる水は、土地を持っている
人のもの。底に緑の山を持っていること自体が、地球温暖化防止に役立つ価値を持
つ。
われわれ日本人が山は面倒だとほかっている間に、外国人に取られようとしている。
山は境界も分からなくなってしまっている。公図も実際には余りに役に立たない。境
界線を明確にするためにも間伐や山の管理が必要になる。農業生産法人のように、地
域の林業者が一緒になって山を管理していく体制作りが必要ではないか。
割り箸は使い捨てで良くないと言われるが、そうばかりとは言えない。日本の木の割
り箸ならどんどん使い捨てし貰った方が間伐が進み山にとってプラスになる。山は木
を切ることも必要。
間伐材は安く、切り出して運ぶ人件費と運賃で、ほとんど残らない。でも間伐するこ
とで100年後に良い木ができると考えれば、やる必要もあるのではないか。間伐コス
トを吸収できれば良しとすべきだが、考えてみると、長期間木を育ててきて、その間
のコストは全く回収できない。
間伐とは間引き、抜き切り。たくさん植えて、間引きしながら良い木を残し育ててい
くこと。以前は細い間伐材もいろいろな形で使われていたのが、コストの安い他の方
法に取って代わられて使い道が無くなっている。間伐材が使えないので、切ってその
まま寝かせておいて腐食させる。ただそうするとその後の作業がし難くなる。
・・・・以下、ディスカッショ ン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
国有林と民有林の問題。江戸時代から明治になる時に、国が良い場所を強引に国に召
し上げたという経緯がある。もうひとつは交通アクセスが悪いところを国有林とした
という部分もある。そういう山は非常に収益を出しにくい。現実に林野特別会計は大
赤字。国有林は膨大なコストがかかっている。税金の支払いに物納しようとしても、
国は受け取ってくれないのが現状。
学校とは、木に交わって学ぶところ。政策として、学校の校舎はすべて木造にすると
いった思い切った政策をしないと、子供たちが森の大切さ、山の大切さを学ぶことが
できないのではないか。
エコカー補助をやるのなら、エコ住宅で二重窓とか作ることより国内材で家を作れば
補助金を出すというような施策が必要ではないか。
最近は獣害が深刻。植林した木の新芽を食べて駄目にしてしまう。自分の子供の頃、
50年前はこんなに猿や鹿は里へ降りてきて悪さをしなかった。可愛そうなことはした
くないが、本当に戦いが必要なぐらい被害が出始めている。なぜこんなに増えたの
か。奥の山を乱開発したという人もいるが、昔とそんなに変わっていない。温暖化で
本来なら冬を越せなかった動物が越せるようになってしまったとか、狼やきつねなど
の肉食系の動物が居なくなってしまって増えたのではないかとも言われるが、原因は
良く分からない。
みなさん、本当にありがとうございました。



















2010.06.28
第38回 長誉館・志葉会のお知らせ
第38回 長誉館・志葉会のお知らせ
あっという間に今年も半分が過ぎてしまいました。
みなさん、お元気ですか?
38回目の志葉会のお知らせです。
今回の講師は、岡崎市の元助役で、現在は山林業をなさっている眞木宏哉さんです。

↑
クリックすると大きくなります。
とっても素敵なおじ様、眞木さんの生き方に学ぶ会。
楽しく深く、共に学びましょう!
お申込みは平成22年7月20日(火)まで。
shiyoukai@mail.goo.ne.jpにてお申込みください。
あっという間に今年も半分が過ぎてしまいました。
みなさん、お元気ですか?
38回目の志葉会のお知らせです。
今回の講師は、岡崎市の元助役で、現在は山林業をなさっている眞木宏哉さんです。

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とっても素敵なおじ様、眞木さんの生き方に学ぶ会。
楽しく深く、共に学びましょう!
お申込みは平成22年7月20日(火)まで。
shiyoukai@mail.goo.ne.jpにてお申込みください。
2010.06.27
第37回 長誉館・志葉会報告・・・写真記録編
第37回 長誉館・志葉会のご報告・・・写真記録編
<写真はすべてクリックすると大きくなります>
今回もみんなが朝からお手伝いしてくれ、楽しく準備ができました。
本当に有難いことです。


↑
こうちゃんが一所懸命に、そして上手にお箸を並べてくれました。
こうちゃん、ありがとね!

↑
本日の講師、良江さん到着。
横のお花は犬ちゃんが生けてくれました!
犬ちゃんはとってもセンスがいいんです☆
↑
太田さん(左)は前回に続いて早朝よりお手伝い下さいました。
阿部さん(右)は大阪より参加。いつも気持ちよくお手伝い下さいます。感謝!
後姿の亜可根さんは、お忙しい中、お手伝いのためだけに来て下さいました。
差し入れ、ごちそうさまでした!

↑
どうですか?なかなか素敵でしょう!
『愛醸ちらし』という名前をつけました!

↑
良江さん、こうちゃん、つじもとの3人で「カブトムシ」の話をしています(笑)!
こ:「カブトムシはどこを持つといいか知ってる?」
良:「知ってるよ〜!おばあちゃん家の近くに、カブトムシはいっぱいいるんだよ〜!」

↑
垂れ幕はいつもの如く、としちゃん作!本当に本当にありがとうございます☆
感謝しています☆また参加してくださいね!
←完成した昼食です!おいしそっ♪
↓みんなで楽しくいただきます!まさに家族団らん♪










↑
この日、広島からわざわざ来てくれたユミちゃん(右)です☆ありがとね!
左はユミちゃんの妹で、いつも京都から来てくれるクミちゃんです☆

↑
ハワイから帰国したばかりの「かーびー」。
お兄ちゃんの結婚式だったそうです。
お土産ありがとね!
さぁ、お昼ごはんの後は、いよいよ勉強です!
講演録はこちら

↑
今回は対談形式で行ないました。

↑
書家の丹羽さんと良江さんのツーショット。

↑
大原校長先生の書かれた「海軍五省」と俳句で受賞なさった時の冊子のコピーです。
勉強のあとは、おやつの時間♪ しあわせ!しあわせ!
←長誉館名物 「幸せ醸し餅」です。

おやつをいただきながら、最後に深田さんが今回の志葉会をまとめて下さいます。
キーワードは「吉永小百合」です(笑)。

しおりの中の深田さんの言葉をご紹介しますね。
お母さん、ありがとう
今月は、母の月。
南北戦争の負傷兵を助けた女性たち。
その娘の一人が贈った白いカーネーション。
それはアメリカの教会から始まりました。
母の日を、5月第2日曜日とする、アメリカ、日本。
5月第1日曜日とする、スペイン、南アフリカ。
5月最終日曜日とする、フランス。
5月8日とする、韓国。
5月10日とするメキシコ。
・・・・・・・・・・・・
どの国も、お母さんが国の支え、生きる支え。
大原良江さんのイメージは、「お母さん、ありがとう」
日本のお母さんが、ふるさとのお母さんが感じられます。
お母さんを生んだのは、ご主人。
お母さんに育てたのは、子供たち。
母の日を、5月志葉会の日とする、日本・岡崎・長誉館。
今日は思い切り、みんなのお母さん、大原良江さんと語りましょう。
長誉館・深田 正義
みなさんのおかげで、今回もとっても素敵な会となりました。
本当にありがとうございます☆

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今回もみんなが朝からお手伝いしてくれ、楽しく準備ができました。
本当に有難いことです。


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こうちゃんが一所懸命に、そして上手にお箸を並べてくれました。
こうちゃん、ありがとね!

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本日の講師、良江さん到着。
横のお花は犬ちゃんが生けてくれました!
犬ちゃんはとってもセンスがいいんです☆
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太田さん(左)は前回に続いて早朝よりお手伝い下さいました。
阿部さん(右)は大阪より参加。いつも気持ちよくお手伝い下さいます。感謝!
後姿の亜可根さんは、お忙しい中、お手伝いのためだけに来て下さいました。
差し入れ、ごちそうさまでした!

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どうですか?なかなか素敵でしょう!
『愛醸ちらし』という名前をつけました!

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良江さん、こうちゃん、つじもとの3人で「カブトムシ」の話をしています(笑)!
こ:「カブトムシはどこを持つといいか知ってる?」
良:「知ってるよ〜!おばあちゃん家の近くに、カブトムシはいっぱいいるんだよ〜!」

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垂れ幕はいつもの如く、としちゃん作!本当に本当にありがとうございます☆
感謝しています☆また参加してくださいね!
←完成した昼食です!おいしそっ♪↓みんなで楽しくいただきます!まさに家族団らん♪










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この日、広島からわざわざ来てくれたユミちゃん(右)です☆ありがとね!
左はユミちゃんの妹で、いつも京都から来てくれるクミちゃんです☆

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ハワイから帰国したばかりの「かーびー」。
お兄ちゃんの結婚式だったそうです。
お土産ありがとね!
さぁ、お昼ごはんの後は、いよいよ勉強です!
講演録はこちら

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今回は対談形式で行ないました。

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書家の丹羽さんと良江さんのツーショット。

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大原校長先生の書かれた「海軍五省」と俳句で受賞なさった時の冊子のコピーです。
勉強のあとは、おやつの時間♪ しあわせ!しあわせ!
←長誉館名物 「幸せ醸し餅」です。

おやつをいただきながら、最後に深田さんが今回の志葉会をまとめて下さいます。
キーワードは「吉永小百合」です(笑)。

しおりの中の深田さんの言葉をご紹介しますね。
お母さん、ありがとう
今月は、母の月。
南北戦争の負傷兵を助けた女性たち。
その娘の一人が贈った白いカーネーション。
それはアメリカの教会から始まりました。
母の日を、5月第2日曜日とする、アメリカ、日本。
5月第1日曜日とする、スペイン、南アフリカ。
5月最終日曜日とする、フランス。
5月8日とする、韓国。
5月10日とするメキシコ。
・・・・・・・・・・・・
どの国も、お母さんが国の支え、生きる支え。
大原良江さんのイメージは、「お母さん、ありがとう」
日本のお母さんが、ふるさとのお母さんが感じられます。
お母さんを生んだのは、ご主人。
お母さんに育てたのは、子供たち。
母の日を、5月志葉会の日とする、日本・岡崎・長誉館。
今日は思い切り、みんなのお母さん、大原良江さんと語りましょう。
長誉館・深田 正義
みなさんのおかげで、今回もとっても素敵な会となりました。
本当にありがとうございます☆

2010.06.27
第37回 長誉館・志葉会報告・・・講演編
第37回 長誉館・志葉会のご報告・・・講演編
5月23日に開催いたしました志葉会での、大原良江さんのお話をまとめました。
今回は対話形式でのお話しでしたので、杉山くんの議事録をもとに時系列に並び替え、
文章を良江さんに確認していただき、ようやくまとめることが出来ました。
長文になりますが、是非お読み下さい。
(良江さん、杉山くん、ありがとうございます!)
平成22年5月23日(日)13:00〜
第37回 長誉館・志葉会 「いのちの語らい」 話し手 大原良江さん
「私の生きてきた道」
満州事変が始まった2週間後の昭和6年9月30日、私は挙母町、現在の豊田市に生まれた。私の父は日露戦争に勝った明治38年9月に生まれた。満20歳で徴兵検査を受け、甲種合格で入隊。2年間の軍事訓練を終え、昭和2年11月除隊した。両親の希望もあり、昭和3年3月に母と結婚した。父と母が結婚して2ヶ月足らずで、済南事件が起こり、父に召集令状がきた。召集令状とは真っ赤な紙切れ。その召集令状には3日後にどこそこに入隊せよと書いてあり、決して断ることはできない。たった1枚の召集令状で本人の、そして家族の運命が大きく変わってしまう。父は中国各地を転戦したが、運よく生きて戻ってくることができた。その間、母は夫の居ない嫁ぎ先を必死になって守ってきた。
昭和5年に最初の子供が生まれたが、生後3ヶ月で死んでしまったそうだ。当時は生まれて間もなく亡くなる赤ちゃんがたくさんいた。その次の年、私が生まれ、3年後に弟が、さらに3年後2人目の弟が生まれた。下の弟が10ヶ月の時、父に再び召集令状がきた。支那事変。一家8人の大黒柱だった父が、再び戦争に行ってしまった。そして、大東亜戦争に突入。戦争のはじめは新聞に勇ましいことが書いてあったが、だんだん負け戦になってきた。
母は父のいない家を必死に守り忙しかったため、私自身は祖母に大変可愛がられて育った。祖母は明治13年生まれ。小学校ができ始めた頃だった。まだノートや鉛筆はなく、石版と石筆で勉強をした時代。小学校に上るために、祖母も石版と石筆を用意してもらっていたが、父親が急に病気になり、小学校に上がれなくなってしまった。学校にやらないと役場に怒られるため、山奥の親戚に寄留して親としての責任をのがれたそうだ。祖母は親から、学校に行かなくても機織りや家事ができればお嫁にいけると教えられたが、友達は楽しそうに学校に通っているのに、自分は行けずとても悲しかったと、私が大きくなってから語ってくれた。自分が学校に行けなかった祖母は、私にはしっかり勉強するようにと言った。
祖母は学校にこそ行けなかったが、いろいろなことを知っていた。ある時、こんな話を教えてくれた。
竹はイネ科。だから、竹の花はイネの花によく似ている。竹の花は60年に1度しか咲かない。そして、花を咲かせると竹は全部枯れてしまう。竹の花は枯れる前に実をつける。その実からは片栗粉のようなでんぷんが取れる。昔、飢饉の時にそれで命をつないだ人もいる。
私も長く生きてきたが、今までに一度だけ竹の花を見たことがある。祖母が言っていたとおり、ある年、花が咲き、竹の一生が終わった。枯れた薮がどうなるのかと思ったら、次の年に細い竹の子が出てきた。次の年に少し太くなり、3年目には前と同じ太さになった。学校は出ていなくても、祖母のように昔の人はたくさんの知恵を持っていた。
おかげさまで、私は学校に行かせてもらうことができた。当時は小学校6年生までが義務教育。その後、女学校に進んだ。入学時は戦中、卒業する時は戦後。制度が変わり、私の卒業式の時は卒業生が3学年いた。女学校5年生、高校の卒業生、学制改革で女学校3年生で新制中学卒業となる生徒の3学年。在校生が1学年で、3学年の卒業生による「仰げば尊し」の大合唱。あまりにも大勢で歌うので、何だか涙も出なかった。
戦争に負けるということは、国が亡くなるということ。一時的に日本という国が無くなってしまった。日本なのに、あちこちに星条旗がはためいているのが、とても悲しかった。
当時の挙母町の人口は約2万人、そこへ2万人の進駐軍が来た。上級兵は電車に乗って、下級兵は貨車で来る。町は進駐軍でいっぱいでそれがとても怖かった。学校を休みにするかという話もあったが、学徒動員のために勉強も遅れていたので、結局休みになることはなかった。アメリカ兵が校長室に来ていて、先生が何か怒られていたのを覚えている。戦時中のモノがどこかから出てきたりしたのだと思う。
戦後の食糧難は本当に厳しかった。とにかく食べるものがない。よく農家が町の人に食べ物を渡さず、意地が悪い等と耳にするが、当時、農家もずいぶん苦労していた。政府は農家から強制的にいい米を安い値段で買い上げていた。そうしないと町の人に行き渡らないから仕方がない。農家が食べるのは、白米などではなく、米選機下の粉のような屑米で、食べられるところが少ない、捨てるような米だった。甘藷の茎や、たんぽぽの葉も食べた。
そのような環境のおかげで、私は強くなれたのかも知れない。どんなつらいことでも死ぬよりはいいと思えたから、その後の人生で何でもできたと思う。
豊田にも空襲があった。私の友人、知り合いも爆撃でいのちを落とした。女学校に行っていた私は学徒動員で豊田自工に行っていたが毎日空襲がある。艦載機という小さな飛行機がやってきて人を見つけると必ず撃つ。飛行機の中の兵隊の顔が見える位の距離から攻撃してくる。会社では逃げてはいけないと教わるので、逃げるわけにはいかなかった。女も竹槍や長刀で、攻撃する訓練をした。「そんなことで人が斬れるか!」と怒られた。
そんな恐ろしい毎日だったが、8月15日、玉音放送が流れたその日から、空襲はピタッと止んだ。終戦。日本全体が一気に虚脱状態になった。
父は今度も運良く生きて帰ることができた。満州事変からの15年戦争がやっと終わった。しかし、家も傾き、食べるものもない。私はまだ学生だったからいいが、親の苦労は大変なものだったと思う。
戦争当時、私は20歳まで生きられないと思っていた。そういう時代だった。長生きしている今、戦時中に命を落とした方に対して本当に申し訳なく思うことがある。
私は女学校を卒業して1年で主人と結婚した。
主人は大正14年生まれで現在85歳。小学校を卒業し、旧制中等学校から岡崎の師範学校に進んだ。戦況が厳しくなり、学生は半年繰り上げで卒業させられた。そして、昭和19年9月に海軍飛行専修予備学生に志願した。
戦前からの教育で、国を守るのは若者の責任と思いこまされてきたので迷うことなく志願したそうだ。霞ヶ浦の航空隊に入隊。海軍少尉となった。主人の兄も海軍航空隊だったが、ソロモン沖で戦死した。日本を守りたい、兄の敵を討ちたいという思いで主人は入隊した。主人の弟は、兄2人が海軍に進んだので、自分は陸軍に入って国を護ると、陸軍航空隊に志願入隊し、満州に渡った。
軍隊では3〜4ヶ月の訓練で飛行機に乗るので、訓練中に命を落とす人も何人かあったそうだ。ソ連が参戦したらウラジオストックに特攻隊として出撃する、ということで待機していたところ、出撃寸前に終戦になった。終戦後は責任を感じて自決する上官もいた。みんなも自殺したい気持ちがあったが、また戦う事になるかもしれないという思いもあり、原隊でしばらく様子を見ていた。しばらくして本当に戦争が終わったとわかって、米軍の手に渡らないように、武器を海岸の砂浜で処分し、機密書類を燃やしたそうだ。その後、帰郷命令が出た。「早まったことはするな、故郷で頼りにしている人がいるぞ」と上の人に諭され、帰郷した。出征するときは誰もが日の丸を振って、「銃後のことは心配するな。お国の為に頑張れ!頑張れ!」と見送ってくれたが、帰ってきたら誰も声を掛けてくれない。たった一人の人だけが「ご苦労様」と声をかけてくれただけだった。命を懸けて戦って帰ってきたが、「負けたのはおまえたちのせいだ」といわないばかりの冷たさだった。それはとても虚しかった、喜んでくれたのは家族と親戚だけだった、と主人は言っていた。
満州に行っていた義弟からは手紙も届かず、音信不通になっていた。生死もわからない状態だったが、シベリアで3年余りの間、抑留されていたことがわかった。抑留生活は本当に悲惨だったそうだ。小さな生のジャガイモを1日にたった1個だけ与えられ、その1個のジャガイモを朝昼晩に分けて舐めるようにして大切に食べた。過酷な寒冷地での重労働で、寝る時もたった毛布1枚が与えられるだけ。栄養失調、凍死、仲間はどんどん少なくなっていく。朝、目を覚ますと寝たまま死んでいる仲間もいた。仲間が死んでいく中で、義弟は命からがら復員したが、私が嫁いだ時にはまだ家で寝込んでいた。だんだん回復して元気になり、義弟は現在も生きている。
私の嫁ぎ先は奥山田町に田んぼや山を持つ小地主で、当時は小作人に耕作してもらっていた。戦後、農地解放により自分で耕作しない土地は小作人の土地になってしまうことになった。舅さんが亡くなり、家は大変な状況だったが、当時は深刻な教員不足で、主人は復員してすぐに、近くの学校で教員として働くことになった。
姑さんは、「先祖からの土地を失っては申し訳ない」といつも言っておられた。その言葉を聞いて、私がやるしかいないと思い、やったことのない農作業をした。田んぼのヒルがとても怖かった。畑仕事には少しずつ慣れてきたが、田んぼに立っているだけで熱がでる。40℃の熱が出ることも。今思えば日射病だったかも知れない。なかなか子供が出来なかったが、3年経ち、田や畑仕事にも慣れた頃、最初の子供を身ごもることができた。
その後、3人の子供に恵まれた。姑さんは子供をとても可愛がって下さった。その姑さんは一番下の子供が2歳の時、転んで腰骨を折り、動けなくなってしまった。姑さんはとてもいい人だったので、面倒をみることはそう苦ではなかった。寝たきりになった時には、「4人目の子供」と思って一所懸命世話をした。農作業をしながら、姑さんの世話と子供の世話をした。田んぼをやりながら、家のことをやるのは大変ではあったが、主人が当時は珍しい農作業用のゴム長靴をどこかから買って来てくれた。その頃、自分の食事を忘れることも度々あった。でも、姑さんの食事は忘れたことはなかった。おかげさまで、先祖の土地も何とか残すことが出来た。
主人は仕事が忙しく、日付が変わらないと帰ってこないような生活だった。今も教員というのは大変だろうが、当時の教員は本当に大変だったと思う。まず、終戦後は教室が全く足りない。旧制中学は高校となり、新制中学の校舎がないのである。小学校を借りていたが狭くてしょうがないので、先生や生徒、一緒になって山の木を切り、松の枝を運び出して瓦に取り替えてもらい、みんなでもっこを担いで校舎を造った。有り難いことに大工さんも奉仕でやってくれた。そうして校舎が少しずつ増えていった。
当時は今ほど工業が発展していなかったので、生徒は卒業しても勤め先がなかった。先生たちは卒業する子の就職先探しに必死になって走り回る。当時はどこも遅くまで仕事をしているので、22時過ぎでないと会ってもらえない。それを待って生徒の就職をお願いするのである。
毎晩遅い主人を、大体夜中の1時までは起きて待っていた。どれだけ夜遅く帰ってきても、主人は翌日5時に起きて6時には家を出ていく。そんな生活が結婚してから10年くらい続いた。そして、2歳だった一番下の子供が大学を卒業する年に、姑さんが亡くなった。約20年の介護生活が終わった。
主人は終戦後、復員して教員となり、香山中学、岩津中学と20年数学を教え、教務主任だった美川中学でも数学を教えていた。その時、先輩から「数学ばかりやっているとカチンカチンの人と思われるから俳句をやってみてはどうか」と誘われて俳句を始めた。今から40年前のこと。やってみると思ったより楽しかったそうだが、退職するまで主人はなかなか俳句に本腰を入れることはできなかった。
私も女学校3年生の時の国語の先生が招聘して下さった加藤かけい先生のお話を聞いて、俳句に興味を持ったが、40歳代の末までは忙しく、そんなチャンスがなかった。主人が俳句を始めてから10年経った頃、お友達に俳句の会に誘ってもらった。姑さんが亡くなり、子供も大きくなったことを機に自分も俳句の道に進んだ。たまたま主人と同じ先生だったので、同じ俳句会で勉強させて頂いている。
今から25年前に、主人が教員を退職した。それまで旅行をする機会などなかったので、思い切って前から行きたかった広島へ2人で旅行した。広島へ行ってみたら、その年が原爆40周年の年だった。自分と同世代の人が亡くなった原爆。お参りすることができて嬉しかったが、原爆ドーム・平和公園一帯の見るもの全てにものすごいショックを受けた。
その時のことを20句にまとめた。俳句というのは、あまり自分の主観を入れるものではないのでどうしたものかと思ったが、感じたままを俳句の作品にして出した。感情が出過ぎているから俳句の先生に叱られるかも、と思いながら提出したが、思いがけず名誉ある賞をいただいた。
今まで生きてきて、1番つらかったのは、長男の死。亡くなってまもなく5年が経つ。長男は3人の子供の中で1番大きくて元気だった。健康優良児で表彰もされ、学生時代はずっと皆勤。父親と同じ教員となってからも、おそらく1日も休まず出勤していたと思う。人間ドックもちゃんと受けて、テニスが好きで運動もしていて、元気そのものだった。
朝、元気に「行ってきます」と学校に出かけて、1日の授業を終え、職員室で雑談をしている最中に体調が悪くなり、保健室で休んでいた。そのうち体半分が痺れて来て、救急車で病院へ。解離性大動脈瘤と言われ、大手術の甲斐もなく死んでしまった。
私も当時は相当落ち込んだが、息子が亡くなったのは何のせいでもない、病気のせいだと今は受け入れようとしている。そういう運命、宿命の子だったと思うことが残された孫達にとっても最良の道だと思っている。
でも、もしこれが戦争で長男を亡くしていたとしたら、私は今も鬼のような気持ちで恨むと思う。姑さんは亡くなる直前まで戦死した主人の兄の名前を呼び、「あの子の死んだ姿を見ておらんで、死んだとは思っていない。あの子が帰ってくるまでは絶対死ねない。」と言ってみえた。私はその気持ちがとてもよくわかる。
主人は息子を亡くしてから、元気をなくしてしまった。そして、廊下で転んだことをきっかけに、すっかり弱ってしまった。肺炎を起こしてからは入院している。今日も病院に寄ってからここに来た。寝たきりにはなってしまったが、意識ははっきりしているので、それがとても有り難いことと思える。毎日、主人のもとへ通うのが、私の今の楽しみになっている。
息子は3人の子を残してくれた。長女は去年結婚し、男の子が生まれた。大学生だった次女も就職して2年過ぎ、中学生だった男の子も今年の4月に希望した国立大学に入学した。嫁も気丈に頑張ってくれている。今は本当に幸せ。本当に有難い。
落ち着いた状態の時にこそ、考えることが大切と思う。
人間にとって命ほど大事なものはない。
命を1番軽くみるのが戦争。「命は鴻毛(こうもう=鴻(おおとり)の羽毛)よりも軽し」命は消耗品だというのが戦争を始める人の言葉。戦争になったらすべての道理は吹きとび、言論の自由は抹殺される。絶対にそんなことはあってはならない。
「丸い卵も切り様で四角」…女は丸くいつも笑顔でいなさい、そうすればみんなに好かれるよと教えられて育った。そのおかげで、誰からもいじめられたことはない。周りの人に恵まれ、本当に自分は幸せ。有難い。感謝、感謝の人生です。
5月23日に開催いたしました志葉会での、大原良江さんのお話をまとめました。
今回は対話形式でのお話しでしたので、杉山くんの議事録をもとに時系列に並び替え、
文章を良江さんに確認していただき、ようやくまとめることが出来ました。
長文になりますが、是非お読み下さい。
(良江さん、杉山くん、ありがとうございます!)
平成22年5月23日(日)13:00〜
第37回 長誉館・志葉会 「いのちの語らい」 話し手 大原良江さん
「私の生きてきた道」
満州事変が始まった2週間後の昭和6年9月30日、私は挙母町、現在の豊田市に生まれた。私の父は日露戦争に勝った明治38年9月に生まれた。満20歳で徴兵検査を受け、甲種合格で入隊。2年間の軍事訓練を終え、昭和2年11月除隊した。両親の希望もあり、昭和3年3月に母と結婚した。父と母が結婚して2ヶ月足らずで、済南事件が起こり、父に召集令状がきた。召集令状とは真っ赤な紙切れ。その召集令状には3日後にどこそこに入隊せよと書いてあり、決して断ることはできない。たった1枚の召集令状で本人の、そして家族の運命が大きく変わってしまう。父は中国各地を転戦したが、運よく生きて戻ってくることができた。その間、母は夫の居ない嫁ぎ先を必死になって守ってきた。
昭和5年に最初の子供が生まれたが、生後3ヶ月で死んでしまったそうだ。当時は生まれて間もなく亡くなる赤ちゃんがたくさんいた。その次の年、私が生まれ、3年後に弟が、さらに3年後2人目の弟が生まれた。下の弟が10ヶ月の時、父に再び召集令状がきた。支那事変。一家8人の大黒柱だった父が、再び戦争に行ってしまった。そして、大東亜戦争に突入。戦争のはじめは新聞に勇ましいことが書いてあったが、だんだん負け戦になってきた。
母は父のいない家を必死に守り忙しかったため、私自身は祖母に大変可愛がられて育った。祖母は明治13年生まれ。小学校ができ始めた頃だった。まだノートや鉛筆はなく、石版と石筆で勉強をした時代。小学校に上るために、祖母も石版と石筆を用意してもらっていたが、父親が急に病気になり、小学校に上がれなくなってしまった。学校にやらないと役場に怒られるため、山奥の親戚に寄留して親としての責任をのがれたそうだ。祖母は親から、学校に行かなくても機織りや家事ができればお嫁にいけると教えられたが、友達は楽しそうに学校に通っているのに、自分は行けずとても悲しかったと、私が大きくなってから語ってくれた。自分が学校に行けなかった祖母は、私にはしっかり勉強するようにと言った。
祖母は学校にこそ行けなかったが、いろいろなことを知っていた。ある時、こんな話を教えてくれた。
竹はイネ科。だから、竹の花はイネの花によく似ている。竹の花は60年に1度しか咲かない。そして、花を咲かせると竹は全部枯れてしまう。竹の花は枯れる前に実をつける。その実からは片栗粉のようなでんぷんが取れる。昔、飢饉の時にそれで命をつないだ人もいる。
私も長く生きてきたが、今までに一度だけ竹の花を見たことがある。祖母が言っていたとおり、ある年、花が咲き、竹の一生が終わった。枯れた薮がどうなるのかと思ったら、次の年に細い竹の子が出てきた。次の年に少し太くなり、3年目には前と同じ太さになった。学校は出ていなくても、祖母のように昔の人はたくさんの知恵を持っていた。
おかげさまで、私は学校に行かせてもらうことができた。当時は小学校6年生までが義務教育。その後、女学校に進んだ。入学時は戦中、卒業する時は戦後。制度が変わり、私の卒業式の時は卒業生が3学年いた。女学校5年生、高校の卒業生、学制改革で女学校3年生で新制中学卒業となる生徒の3学年。在校生が1学年で、3学年の卒業生による「仰げば尊し」の大合唱。あまりにも大勢で歌うので、何だか涙も出なかった。
戦争に負けるということは、国が亡くなるということ。一時的に日本という国が無くなってしまった。日本なのに、あちこちに星条旗がはためいているのが、とても悲しかった。
当時の挙母町の人口は約2万人、そこへ2万人の進駐軍が来た。上級兵は電車に乗って、下級兵は貨車で来る。町は進駐軍でいっぱいでそれがとても怖かった。学校を休みにするかという話もあったが、学徒動員のために勉強も遅れていたので、結局休みになることはなかった。アメリカ兵が校長室に来ていて、先生が何か怒られていたのを覚えている。戦時中のモノがどこかから出てきたりしたのだと思う。
戦後の食糧難は本当に厳しかった。とにかく食べるものがない。よく農家が町の人に食べ物を渡さず、意地が悪い等と耳にするが、当時、農家もずいぶん苦労していた。政府は農家から強制的にいい米を安い値段で買い上げていた。そうしないと町の人に行き渡らないから仕方がない。農家が食べるのは、白米などではなく、米選機下の粉のような屑米で、食べられるところが少ない、捨てるような米だった。甘藷の茎や、たんぽぽの葉も食べた。
そのような環境のおかげで、私は強くなれたのかも知れない。どんなつらいことでも死ぬよりはいいと思えたから、その後の人生で何でもできたと思う。
豊田にも空襲があった。私の友人、知り合いも爆撃でいのちを落とした。女学校に行っていた私は学徒動員で豊田自工に行っていたが毎日空襲がある。艦載機という小さな飛行機がやってきて人を見つけると必ず撃つ。飛行機の中の兵隊の顔が見える位の距離から攻撃してくる。会社では逃げてはいけないと教わるので、逃げるわけにはいかなかった。女も竹槍や長刀で、攻撃する訓練をした。「そんなことで人が斬れるか!」と怒られた。
そんな恐ろしい毎日だったが、8月15日、玉音放送が流れたその日から、空襲はピタッと止んだ。終戦。日本全体が一気に虚脱状態になった。
父は今度も運良く生きて帰ることができた。満州事変からの15年戦争がやっと終わった。しかし、家も傾き、食べるものもない。私はまだ学生だったからいいが、親の苦労は大変なものだったと思う。
戦争当時、私は20歳まで生きられないと思っていた。そういう時代だった。長生きしている今、戦時中に命を落とした方に対して本当に申し訳なく思うことがある。
私は女学校を卒業して1年で主人と結婚した。
主人は大正14年生まれで現在85歳。小学校を卒業し、旧制中等学校から岡崎の師範学校に進んだ。戦況が厳しくなり、学生は半年繰り上げで卒業させられた。そして、昭和19年9月に海軍飛行専修予備学生に志願した。
戦前からの教育で、国を守るのは若者の責任と思いこまされてきたので迷うことなく志願したそうだ。霞ヶ浦の航空隊に入隊。海軍少尉となった。主人の兄も海軍航空隊だったが、ソロモン沖で戦死した。日本を守りたい、兄の敵を討ちたいという思いで主人は入隊した。主人の弟は、兄2人が海軍に進んだので、自分は陸軍に入って国を護ると、陸軍航空隊に志願入隊し、満州に渡った。
軍隊では3〜4ヶ月の訓練で飛行機に乗るので、訓練中に命を落とす人も何人かあったそうだ。ソ連が参戦したらウラジオストックに特攻隊として出撃する、ということで待機していたところ、出撃寸前に終戦になった。終戦後は責任を感じて自決する上官もいた。みんなも自殺したい気持ちがあったが、また戦う事になるかもしれないという思いもあり、原隊でしばらく様子を見ていた。しばらくして本当に戦争が終わったとわかって、米軍の手に渡らないように、武器を海岸の砂浜で処分し、機密書類を燃やしたそうだ。その後、帰郷命令が出た。「早まったことはするな、故郷で頼りにしている人がいるぞ」と上の人に諭され、帰郷した。出征するときは誰もが日の丸を振って、「銃後のことは心配するな。お国の為に頑張れ!頑張れ!」と見送ってくれたが、帰ってきたら誰も声を掛けてくれない。たった一人の人だけが「ご苦労様」と声をかけてくれただけだった。命を懸けて戦って帰ってきたが、「負けたのはおまえたちのせいだ」といわないばかりの冷たさだった。それはとても虚しかった、喜んでくれたのは家族と親戚だけだった、と主人は言っていた。
満州に行っていた義弟からは手紙も届かず、音信不通になっていた。生死もわからない状態だったが、シベリアで3年余りの間、抑留されていたことがわかった。抑留生活は本当に悲惨だったそうだ。小さな生のジャガイモを1日にたった1個だけ与えられ、その1個のジャガイモを朝昼晩に分けて舐めるようにして大切に食べた。過酷な寒冷地での重労働で、寝る時もたった毛布1枚が与えられるだけ。栄養失調、凍死、仲間はどんどん少なくなっていく。朝、目を覚ますと寝たまま死んでいる仲間もいた。仲間が死んでいく中で、義弟は命からがら復員したが、私が嫁いだ時にはまだ家で寝込んでいた。だんだん回復して元気になり、義弟は現在も生きている。
私の嫁ぎ先は奥山田町に田んぼや山を持つ小地主で、当時は小作人に耕作してもらっていた。戦後、農地解放により自分で耕作しない土地は小作人の土地になってしまうことになった。舅さんが亡くなり、家は大変な状況だったが、当時は深刻な教員不足で、主人は復員してすぐに、近くの学校で教員として働くことになった。
姑さんは、「先祖からの土地を失っては申し訳ない」といつも言っておられた。その言葉を聞いて、私がやるしかいないと思い、やったことのない農作業をした。田んぼのヒルがとても怖かった。畑仕事には少しずつ慣れてきたが、田んぼに立っているだけで熱がでる。40℃の熱が出ることも。今思えば日射病だったかも知れない。なかなか子供が出来なかったが、3年経ち、田や畑仕事にも慣れた頃、最初の子供を身ごもることができた。
その後、3人の子供に恵まれた。姑さんは子供をとても可愛がって下さった。その姑さんは一番下の子供が2歳の時、転んで腰骨を折り、動けなくなってしまった。姑さんはとてもいい人だったので、面倒をみることはそう苦ではなかった。寝たきりになった時には、「4人目の子供」と思って一所懸命世話をした。農作業をしながら、姑さんの世話と子供の世話をした。田んぼをやりながら、家のことをやるのは大変ではあったが、主人が当時は珍しい農作業用のゴム長靴をどこかから買って来てくれた。その頃、自分の食事を忘れることも度々あった。でも、姑さんの食事は忘れたことはなかった。おかげさまで、先祖の土地も何とか残すことが出来た。
主人は仕事が忙しく、日付が変わらないと帰ってこないような生活だった。今も教員というのは大変だろうが、当時の教員は本当に大変だったと思う。まず、終戦後は教室が全く足りない。旧制中学は高校となり、新制中学の校舎がないのである。小学校を借りていたが狭くてしょうがないので、先生や生徒、一緒になって山の木を切り、松の枝を運び出して瓦に取り替えてもらい、みんなでもっこを担いで校舎を造った。有り難いことに大工さんも奉仕でやってくれた。そうして校舎が少しずつ増えていった。
当時は今ほど工業が発展していなかったので、生徒は卒業しても勤め先がなかった。先生たちは卒業する子の就職先探しに必死になって走り回る。当時はどこも遅くまで仕事をしているので、22時過ぎでないと会ってもらえない。それを待って生徒の就職をお願いするのである。
毎晩遅い主人を、大体夜中の1時までは起きて待っていた。どれだけ夜遅く帰ってきても、主人は翌日5時に起きて6時には家を出ていく。そんな生活が結婚してから10年くらい続いた。そして、2歳だった一番下の子供が大学を卒業する年に、姑さんが亡くなった。約20年の介護生活が終わった。
主人は終戦後、復員して教員となり、香山中学、岩津中学と20年数学を教え、教務主任だった美川中学でも数学を教えていた。その時、先輩から「数学ばかりやっているとカチンカチンの人と思われるから俳句をやってみてはどうか」と誘われて俳句を始めた。今から40年前のこと。やってみると思ったより楽しかったそうだが、退職するまで主人はなかなか俳句に本腰を入れることはできなかった。
私も女学校3年生の時の国語の先生が招聘して下さった加藤かけい先生のお話を聞いて、俳句に興味を持ったが、40歳代の末までは忙しく、そんなチャンスがなかった。主人が俳句を始めてから10年経った頃、お友達に俳句の会に誘ってもらった。姑さんが亡くなり、子供も大きくなったことを機に自分も俳句の道に進んだ。たまたま主人と同じ先生だったので、同じ俳句会で勉強させて頂いている。
今から25年前に、主人が教員を退職した。それまで旅行をする機会などなかったので、思い切って前から行きたかった広島へ2人で旅行した。広島へ行ってみたら、その年が原爆40周年の年だった。自分と同世代の人が亡くなった原爆。お参りすることができて嬉しかったが、原爆ドーム・平和公園一帯の見るもの全てにものすごいショックを受けた。
その時のことを20句にまとめた。俳句というのは、あまり自分の主観を入れるものではないのでどうしたものかと思ったが、感じたままを俳句の作品にして出した。感情が出過ぎているから俳句の先生に叱られるかも、と思いながら提出したが、思いがけず名誉ある賞をいただいた。
今まで生きてきて、1番つらかったのは、長男の死。亡くなってまもなく5年が経つ。長男は3人の子供の中で1番大きくて元気だった。健康優良児で表彰もされ、学生時代はずっと皆勤。父親と同じ教員となってからも、おそらく1日も休まず出勤していたと思う。人間ドックもちゃんと受けて、テニスが好きで運動もしていて、元気そのものだった。
朝、元気に「行ってきます」と学校に出かけて、1日の授業を終え、職員室で雑談をしている最中に体調が悪くなり、保健室で休んでいた。そのうち体半分が痺れて来て、救急車で病院へ。解離性大動脈瘤と言われ、大手術の甲斐もなく死んでしまった。
私も当時は相当落ち込んだが、息子が亡くなったのは何のせいでもない、病気のせいだと今は受け入れようとしている。そういう運命、宿命の子だったと思うことが残された孫達にとっても最良の道だと思っている。
でも、もしこれが戦争で長男を亡くしていたとしたら、私は今も鬼のような気持ちで恨むと思う。姑さんは亡くなる直前まで戦死した主人の兄の名前を呼び、「あの子の死んだ姿を見ておらんで、死んだとは思っていない。あの子が帰ってくるまでは絶対死ねない。」と言ってみえた。私はその気持ちがとてもよくわかる。
主人は息子を亡くしてから、元気をなくしてしまった。そして、廊下で転んだことをきっかけに、すっかり弱ってしまった。肺炎を起こしてからは入院している。今日も病院に寄ってからここに来た。寝たきりにはなってしまったが、意識ははっきりしているので、それがとても有り難いことと思える。毎日、主人のもとへ通うのが、私の今の楽しみになっている。
息子は3人の子を残してくれた。長女は去年結婚し、男の子が生まれた。大学生だった次女も就職して2年過ぎ、中学生だった男の子も今年の4月に希望した国立大学に入学した。嫁も気丈に頑張ってくれている。今は本当に幸せ。本当に有難い。
落ち着いた状態の時にこそ、考えることが大切と思う。
人間にとって命ほど大事なものはない。
命を1番軽くみるのが戦争。「命は鴻毛(こうもう=鴻(おおとり)の羽毛)よりも軽し」命は消耗品だというのが戦争を始める人の言葉。戦争になったらすべての道理は吹きとび、言論の自由は抹殺される。絶対にそんなことはあってはならない。
「丸い卵も切り様で四角」…女は丸くいつも笑顔でいなさい、そうすればみんなに好かれるよと教えられて育った。そのおかげで、誰からもいじめられたことはない。周りの人に恵まれ、本当に自分は幸せ。有難い。感謝、感謝の人生です。





